~あわくら歴史街道~ H15.4 | |
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大茅の永昌山鉄山は、元禄12年(1699)から明治20年(1887)頃まで、土豪家や商業資本家達によって砂鉄精錬が行われてきました。年間、鉄の生産は35代(よ)、1代(よ)は3昼夜かけて炉を焚き、砂鉄より鉄を取り出すという重労働でした。 中国地方の山地は、全国の70%を占めるタタラ産地として有名でした。それは、良質の砂鉄が豊富で、然も鉄を取り出すのに大量の木炭を使ったので、炭焼き用の原木に恵まれている等の条件が整っていたからです。 |
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中でも永昌山鉄山は、隣の兵庫県宍粟市(旧千種町)で行っていた各鉄山の技術、文化等の影響を多分に受けて、鉄の産地として繁盛していました。今もその遺構は、杉葉等で隠れてはいるが立派に残っていて、往時を偲ぶことができます。村内には大茅の他、塩谷、谷口、引谷地内にもあって、このタタラ場には必ず守護神として祭祀した金屋児神という神様がありました。 島根県能義郡広瀬町西比田の金屋児神社(県文化財)に伝わる「金屋子祭文雲州比田の伝」によると、ある時村人が集まって雨乞いをしていた所へ、雨と共に播磨の国岩鍋(千種町岩野辺)に、我は金作りの金屋児神であるぞ、今より悪魔降伏、人民安全、五穀豊穣のことを教えようと、磐石をもって鍋を作られた、故にこの地を岩鍋というようになったと。神はこの土地に永く住み給う山もなく、白鷺に乗って西国へ、そして出雲の奥比田山のとある桂の木に降りられた。たまたま狩猟に出ていた安部正重という人が神のお告げを受けて神主となり、長田兵部朝日長者なる人が粉鉄を集めてこれを吹いた(製鉄した)。これが出雲の国のタタラ稼業の始まりだと伝えています。 (タタラ唄の一節・・・) |
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