竹山城主新免伊賀守と佐渕城主草刈與次郎の合戦

~あわくら歴史街道~ H15.6
 
竹山城主新免伊賀守と佐渕城主草刈與次郎の合戦跡の写真  時は天正7年6月(1579)のこと、草刈の軍勢、黒岩土佐、鉄櫃太郎左ヱ門をはじめ騎馬の勇士150足軽を含めて500余人、これに対し新免勢も数度の合戦なので、近郷諸氏の応援を受けてその勢力450人でありました。
新免の本街道軍勢は、本位田駿河守、春名三之丞をはじめとして江ノ原に本陣を構えていました。先発隊が佐渕城付近まで攻め上り戦いを挑みましたが撃破されて退却、勝ちに乗じて草刈勢は、筏津場ヶ原付近に兵を進めて此処を先途と渡り合いました。
その最中に、新免方の知将平田無二斎(宮本武蔵の父)の知略によって新免伊賀守の率いる別動隊50名に槍、鉄砲を持たせ、東粟倉村吉田の小谷より米ヶ乢を越えて野井張に迂回させ、草刈勢の背後から襲いかかったため、草刈勢は総崩れとなり体勢は一変してしまいました。
 與次郎は残る部下をまとめ、一旦佐渕城に引き返し戦略を練ろうと退却する途中、新免方の砲手江導寺三助等の砲撃にあい、弾は與次郎の腰に命中、馬から落ちるところを草刈彦太郎景元が肩にかけて引き揚げ、別府片渕の阿弥陀堂に入り、軍略を練ろうとしていました。新免勢の追撃も激しく負傷した将士と共に応戦しましたが、草刈勢に利なく遂に與次郎は自刃して果てたと伝えられています。與次郎は若干17歳の生涯でありました。
この戦いで草刈勢の戦死者160人、新免方は67人であったと伝えています。 
 與次郎の兄草刈三郎左ヱ門重継(加茂郷高山城主)は残党を引き連れ塩谷より戸国(勝田町)へ山越えして草野原を経て淀山城に引き上げていきましたので、当然佐渕城は新免方の支配するところとなりました。
 塩谷の西の丘という処に加賀殿屋敷と呼ぶところがあって、そこには五輪の供養塔が数基立っています。高山城主草刈氏は代々加賀守を名乗っていたので、戸国越えの前にこの丘で敵の追手のないことを見定め、休息と死者の弔いをして立ち去った跡なので加賀殿屋敷、加賀とんさんと呼ばれるようになったものと推考しています。
 
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