引谷のイモジと修験者の足跡

~あわくら歴史街道~ H14.5
 
修験者の足跡の山の写真  平安時代新たに開かれた天台、真言両宗派の特色となった密教は、呪術的な加持祈祷を重要な作法とし、そのための法力を体得しようとして競って山岳地帯に入り込み、又寺院の経営されるものも少なくなかったようである。
こうした山岳仏教の興隆は、修験道の成立にも拍車をかけてきた。昔、源義経が鞍馬寺で兵法を習った天狗も山伏に他ならず、京都の五条大橋以来股肱の家来となった武蔵坊弁慶も熊野山伏の出身であったといわれる。この熊野山伏には、鋳物師の「鋳物師大明神」信仰が付随していた。
 かつては賎民であった各種鋳造物の専門技術者が、一方では剣を護法のシンボルとして、山岳修験者に加わって遊行者となって、信者を求めて遠く東北の果てまでも往来するようになったのである。義経の東下りに案内役を務めたと言われる金売りの吉次は、鋳物師相手の金物商人でもあった。
このような修験者と鋳物師との係り合いの浅からぬもののあること、即ち西の大峯山ともいわれた後山行者山(延命山道仙寺)霊峯に修験者の行場のあることから、当然多くの修験者が来峯したであろうし、山脈続きに引谷を含め行場であったこともうかがえるわけである。かの高野聖僧の引谷に居住していたこと、ひじり杉は大正の頃既に700年の樹齢を数えていたこと、長尾天徳寺は往古天台宗として栄え、後山行者山の西の結界寺とも言われ、修験者のコリ取場であったとも言われる天徳寺西方山中(滝ノ奥)に天慶4年(941)3月、種字(カーン)を刻した不動石のあること、小才(こざい)越にイモジ(鋳物師)の名称の残る山のあること等から、イモジ名称の起源は鋳文字でもなければ只単に薯地(自然薯に適した土地)でもなく、鋳物師と考えた方が当たっているのではないかと史考されるのである。例えば、鋳物師の屋敷があったのではないか等を含めて…。又、天満神社の明治初年合祀記録の中に吹屋山ノ神のあることからも、タタラ遺跡があっても不思議でない条件が揃っている。
 
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