~あわくら歴史街道~ H15.10 | |
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承久3年(1221年)後鳥羽上皇は、時の鎌倉幕府北条義時より朝廷政治を取り戻すため、討幕の兵を集めて義時追討の院宣を下されたが、院側は義時の子恭時や弟時房等の軍勢に敗れ、後鳥羽法皇は隠岐に、土御門上皇は土佐の国へ、順徳上皇は佐渡へと配流されました。世に之を承久の乱と言い、義時は不忠の義漢として名を歴史に遺しました。 その後上皇は配所で月を眺めて、在りし日の都のことども思われて、歌など多く遺されて、遂に隠岐の島で崩御されました。 |
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維新と共に王政復古となり、明治天皇の思し召しにより皇居内の皇霊殿に還られることになり、明治6年(1873年)11月25日、御鳳輦が鳥取県より志戸坂を越えて坂根村ヤシキ467番地でご休息なされ、同日大原 町古町の有元家にお泊まりになっています。 この時の行列の様子を次のように記しています。 奉迎使 式部寮七等出仕 慈光寺有仲 行列は威儀粛々として行進、上皇は実に650年ぶりにお帰りになるというので、沿道の村民は挙って県道に出てお迎えしたそうです。 (後鳥羽上皇の御歌) |
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